弘法大師が遙かに都を離れ、しかも約1000メートルの高峰であるこの高野山を発見されたことについては、古くから一つの物語が伝えられています。 |
それは大師が、2ヶ年の入唐留学(にっとうるがく)を終え、唐の明州(みんしゅう)の浜より、帰国の途につかれようとした時、迦藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を空中に投げられました。 |
 ▲高野尋入事「高野大師行状図画」第四 |
その三鈷は空中を飛行して現在の迦藍の建つ壇上におちていたといわれています。 大師はこの三鈷の行方を求め、いまの大和の宇智郡に入られたとき、そこで異様な姿をした一人の狩人に逢いました。 身の丈2メートル余り、赤黒い色をした偉丈夫で、手に一張の弓と矢を持ち、黒と白の二匹の犬を連れていました。 |
 ▲伝説の「三鈷の松」 |
大師はその犬に導かれて、紀の川を渡り、やがて嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出逢い「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう。」と語られ、さらに山中深く進んでいくと、そこに勿然と幽邃(ゆうすい)な台地がありました。 そして、そこの1本の松の木に、明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけて、この地こそ、真言密教にふさわしい地であると判断し、この山を開くことを決意されたそうです。このとき山中で出逢った女性は、山麓の天野の里に祀られている丹生都比売明神(にうつひめみょうじん)であり、猟師は狩場明神として大師の手によって祀られました。 |
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